スバルA-5(その2)
戦後日本の自動車規格は大型車、小型車、軽自動車に分類され、その需要はトラックなど産業用がほとんどであった。
また、乗用車の主力を占める小型車についても、タクシー業界が需要の大半という状況であった。
一方、復興期の日本メーカーによる自動車の供給能力は乏しく、旺盛なタクシー需要を満たすにはあまりにも貧弱。外国車の輸入拡大を求めるタクシー業界の声は、日増しに大きくなるばかりであった。
こうした声に運輸省までが同調するに至り、国策として自動車産業の振興を狙う通産省は、次のような施策を打ち出す。
まず国内主要メーカーに海外メーカーとの技術提携を促し、外国車の国産化による技術の習得を後押しする。
これを受けて日産・いすゞ・日野等各社は海外メーカーと提携、車両のノックダウン生産を開始する。
一方あくまでも自社開発路線をつき進むトヨタ自動車の姿もあった。
各社はいずれも戦前から自動車生産を担う、当代日本における"一流の"自動車メーカーであり、彼らを育成して技術・供給能力の底上げを図るものであった。
こうした環境のもと、自動車産業の強化・振興を求める機運が徐々に高まり、やがて輸入車拡大の声を圧倒するようになって行く。
「日野ルノー4CV」。海外メーカーの技術習得を目指し、ノックダウン生産された典型例。
タクシー業界の需要が多く、神風タクシーなる言葉も生まれる。
ここで政府も動き出す。
政府調達からの輸入車排除、大型自動車の輸入を制限する等の方策で、保護政策に乗り出した。
政府肝いりの手厚いサポートで競争力の弱い国産メーカーを自立させ、国内の小型車需要を国産車で、そして将来は国産車の輸出も視野に入れる。
国家戦略的産業振興策がここに完成し、動き出した。
こうして主要自動車メーカーが海外技術の習熟に励む中、「国民車構想」なる新たな産業政策が通産省から突如打ち出(リーク?)される。
ここで当時の自動車産業について改めて俯瞰してみると、国策として大手メーカーを育成中の小型自動車市場がある一方、中小企業が入り乱れ群雄割拠ともいえる混沌状態の軽自動車市場があった。
戦後復興期の輸送需要はトラックやタクシーに限らず、中小工場・商店等の配達需要など、小運搬に適した軽車両にも及ぶ膨大なものであった。
こうした状況を背景に一攫千金を狙う企業家達が、比較的製造が安易な軽自動車市場にこぞって参入したのである。
それこそバックヤードビルダーのような町工場から、戦前から健在の二輪、三輪専業メーカー、あるいは製造が禁止された航空機産業からの参入など、様々な会社が競い合う戦国時代さながらの様相を呈していた。
一方当時における国内の自動車需要は、上述の通り軽自動車も含めてほとんどが産業用で、自家用車の存在など皆無であった。
軽自動車といども庶民の足にはまだ高価の花という時代。
「国民車構想」はこうした背景のもと、安価な自動車の供給に大手企業の参入を促し、技術革新とコストダウンにより国民の手に届く大衆車を普及させるという、社会政策的目的も含まれていた。
安価な自動車を普及させるとあれば、軽自動車の規格で作るのが最適と思われるが、実は「国民車構想」として要求性能が明示されたものは、事実上軽自動車の規格にこだわらないおおまかなものであった(例えば排気量500cc以下は軽自動車の排気量を上回る)
また、要求性能を満たす車の開発には技術的なハードルが高く、"一流自動車会社"の参入無しでは構想の実現は不可能と考えられていたようだ。
同構想は自動車の普及率拡大による成長産業化という産業振興の他に、自動車という便利な乗り物の所有による一般大衆の効用を高める社会政策に加え、無秩序な軽自動車産業を整理・最適化するという目的もあったと言える。
「三菱500」。国民車として打ち出された最初期の一台。排気量500CCで小型車にカテゴライズされるが、市場の評価はあまり芳しいものではなかった。
ところがこのような構想に対し"一流自動車会社"は冷水を浴びせる。
まずは技術的に困難であるという声があがった。
国民車構想で示された要求性能は高度である一方、価格水準は達成するには厳しすぎる条件であった。
そして同構想が自動車メーカー一社のみを製造会社として指定、独占的に優遇措置を与えるいう内容に業界全体として抵抗感があったようだ。
文字通りビッグビジネスなだけに、競争に勝ち抜けば他社を一気に出し抜けるが、破れればダメージが大きい。
勝者を目指すよりも、勝者を作らせないというリスク回避行動こそ、企業幹部それぞれにとって優先事項とされたのか。
"既存自動車メーカー5社"の意向をうけた自動車工業会は「要求性能を満たした価格での開発は不可能。将来の検討課題とする」という見解をまとめ、同構想の幕引きを迫った。
「国民車構想」はこうして失敗に終わるが、一方「国民車」として出された要求性能は、大衆車開発において目標とすべき、格好のベンチマークとなった。
頓挫したはずの"国民車"の開発に軽自動車メーカー各社のほか、トヨタ等も参入、やがて異業種からの参入組である富士重工がほぼ構想を達成(販売価格以外は)した軽自動車を発売したのは周知のとおり。
「スバル360」の登場は日本にモータリゼーションをもたらし、混沌とした軽自動車メーカー群の淘汰を一気に進めることになる。
「スバル360」。日本における自動車普及に大きく貢献した一台。
事実上の「国民車」を作り上げ、軽自動車市場を席巻した富士重工業の次なる目標は、当然小型自動車市場への参入となろう。
もとより高度経済成長期の当時、所得水準の向上は目覚ましく、より高価・高性能な自動車への需要シフトが容易に見てとれた。
また、軽自動車とは異なり欧米市場への輸出も可能な小型車の生産に乗り出すことは、既存自動車メーカーに追いつく大きなチャンスとなる。
かつて革新的な「P-1」という小型車を開発したにもかかわらず、当時は市場への参入を果たせなかった。
軽自動車で大きな成果を収めた今、再度参入を試みるには、絶好のタイミングであったに違いない。
「スバル360」の成功を手に「A-5」で小型車参入を試みるが、時代の波に翻弄される。
ところがその矢先の1961年5月、通産省より「特定産業振興臨時措置法案」(特振法案)なるものが示される。
日本経済は戦後の混沌期を抜け出し、工業先進国として輸出大国への道を徐々に歩き始めていた。
それに伴い、自動車産業もかっての保護・育成政策からの脱却を迫られるようになる。
ようやく独り立ちしつつあった自動車メーカー各社に対し、海外からの市場開放圧力が徐々に強まっていく。
やがては輸入車と、国内市場を巡っての競争を迫られることは必至であった。
こうした背景のもと通産省より、打ち出された新たな施策が上記法案である。
その骨子は
「国内自動車メーカーを整理・統合し、海外メーカーと競争できる体質に強化する」
「そのためにはまず新規メーカーの参入を制限、生産車種の制限もやむを得ない」
というものであった。
これに激しく反応したのは、自動車生産に新規参入を狙う本田技研だ。
創業者本田宗一郎の怒気あふれる反発が、今日さまざまな媒体に残されている。
「新規参入を認められなければ、ホンダは永久に四輪車進出ができなくなる」
「車種規制となると360cc以上のものは作れなくなる」
当時四輪車の製造をしていなかったホンダは急遽開発に着手、「ホンダスポーツ360」をまたたく間に完成させる。
そして
「小型車を出しておかないと軽4輪だけに抑えられる危険がある」
として、すぐさま「S500」の開発に走る。
結果、「S360」は生産されず「S500」が世に出たのは有名な話だ。
このような時代背景の中、富士重工業は「A-5」の開発を進めていた。
自動車行政の荒波に揉まれ、消えたもう一台「ホンダスポーツ360」
それにしても、当時の企業経営の判断スピード・決断力には大いに驚かされる。
それにしても2輪車で世界市場を席巻したホンダや、事実上の国民車で軽自動車市場を制し、大量生産・販売の実績を持つ富士重工業を、当時の通産省、あるいは既存の"一流自動車メーカー"は一体どのように見ていたのだろうか?
「新しい技術で作りたい」
という、スバルのサービスクルーの方より何度も繰り返された言葉。
今その言葉の意味に思いを巡らせる。
既存メーカーだけで扉が締め切られようとしている市場に、「既存メーカーと同じ既存の技術」を用いた新規参入では、不利になる。
今までにない新しい技術に挑戦し、その成果を市場に持たらしてこそ、評価を得られるのだ。
そういう思いがそこにはあったのではないか。
一方、国内の小型車市場は輸入制限撤廃により、海外メーカーとの大競争となる。
既存の国産車メーカーにとって、よそ者はできるだけ排除したいに違いない。
「スバル360」での実績や「A-5」で習得されつつあった様々な革新は果たして評価されたのか、されなかったのか。
あるいはその目に脅威として映ったのか。
結局特進法はその後、紆余曲折の末廃案となったが、戦前からの自動車製造の経験を持たない"新興メーカー"のプリンスは日産自動車に吸収。
そして「A-5」はまたしても資金の壁にぶつかり日の目を見ずに終わった。
静かに佇む「スバルA-5」。近年レストアされ、今は静かに余生を過ごす。
ピラーが細く、良好な視界の室内。各種メーターに針が備わっておらず、試作車両らしさを感じさせる。
今こうして過去を振り返ってみると、1960年代はまさに激動・熾烈な競争の世界で、古き良き牧歌的な時代などでは決してない。
そのような時代に生まれ、そして時代の間に消えたはずの「スバルA-5」は、こうした荒波を乗り越え、今日なおここにその姿を留める。
やわらかな日差しを浴びたその姿は、どこかユーモラスで微笑ましく思える。
ここにこうした過去を伝える、貴重な車両を我々が目にできる幸運は、決して偶然ではない。
様々な先人たちの強い意志をそこに感じさせる。
モーターショーの華々しいスポットライトに照らされた車たちは、その多くが廃棄処分される運命にある。「A-5」とて同じこと。
こうした貴重な車両を保持し続けることは、過去の古い車の金型を保持するのと同じで、課税対象の資産として会社の重荷となる。
きっと幾度となくその処遇をどうするか、検討にのぼったことだろう。
様々な曲折を乗り越えて今日、ここに伝えられた物はただの車ではない。
「A-5」は革新的な技術開発で多くのテクノロジーを富士重工業に残したが、それよりも今日に脈々と伝えられるのは「新しい技術に挑戦したい」というエンジニアの意志であり、それを後世に残し伝えていくという会社の意志。人の思いである。
これこそが「スバルA-5」の残した最大のレガシーではないか。
盛況を極めたイベントも終幕が迫りつつあった。
スバルのサービスクルーは整列して花道を造り、並ぶ。イベント観覧者の人波も自然に列に加わっていく。
「こうしてイベントの参加車両に、労いの拍手をしながら送り出すのです」
整列をした人の波で作られた一本の道を、一台ずつ車がパレードしながら退出していく。
参加車両とそのドライバーに向けて贈られる人びとの拍手は、いつまでも鳴り止まない。
「私はこの送り出す時が一番好きなんですよ」
拍手を贈りながらそう話すスバルの方に、思わず微笑みを返す。
自動車を製造する会社の社員なら車好きであって欲しいと願うのは人の常だが、現実必ずしもそうではない。
ただこの場に居合わせたスバルの方々は違ったようだ。
例えば
「あれZ432Rですよ。初めてみました」
とか、眼の前を通る車を見て反応する若い社員の様子を見ていると、なんだか嬉しくなる。
「あ、あの方はスバルの元デザイナーですね」
「レオーネ」と「アルシオーネ」のデザインを担当した方です」
見ると、スクエアで好ましいデザインの「レオーネ」2ドアクーペに乗った眼光鋭い、ダンディな紳士が目の前を通り過ぎていった。
ご家族揃ってこのイベントに一般参加されていたのであった。
実はスバルのサービスクルーの方に「後ほどで紹介します」というお話を頂いていたのだが、「A-5」の話で夢中になり、お互いすっかり忘れていたのだった。
それにしても、社をあげて地域の交流イベントを盛り上げる、その姿勢には本当に頭がさがる思いだった。
「A-5」をローダーで運び、設置。そして解説員の手配まで、一体何人の人びとがここに集まったのだろう。
私はすっかり「スバル」という会社の大ファンになっていた。
撤収準備が進む「A-5」。後方のローダーに積載し、帰路に着く。
時はすでに4時を回り、あらかたの車も人も広いキャンパスからはけて、もとの静寂を取り戻していた。
私はなお残された数台の車を、木立の並ぶ開放的な広場という絶好のシチュエーションを活かして、最後の撮影活動をしていた。
ふと広場の奥に目をやると、「A-5」を搭載したローダーがちょうど通りすぎようとしていた。
運転席には、長々とお話にお付き合い頂いたスバルのサービスクルーの方の姿がある。
私が軽く一礼すると、それに気がついた先方もお辞儀を返してくれた。
なんと気持ちの良い午後だろう。
お世話になったスバルの皆様、ここに御礼申し上げます。
ありがとうございました。
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